底辺腐女子が地雷レッテル貼りをされてPTSDになった話(6)
【このブログは、二次創作同人作家から突然、地雷レッテル貼りをされてイジメ行為を受け、まともな二次創作活動ができなくなってしまった、底辺の腐女子の訴えのブログです】
こんにちは 今回は、チモッティーが白血病の子どもを抱えて生活をし、創作再開をする時までの話 です。
分かりにくくなってしまうので 年表をまた。
~2009年5月 息子誕生
2011年3月 東日本大震災発生
2011年1月~8月 チモッティー、そろそろ漫画創作再開しようとリハビリ開始
2012年9月 息子 小児急性リンパ性白血病(T-ALL)発症
チモッティー漫画を描けなくなる(睡眠導入剤だけ服用し安定剤は拒否)
2013年11月 1年以上の化学療法、頭蓋照射を終え寛解状態で息子、退院
2013年12月 息子、放射線治療で全身無毛状態だが、公立保育園に入れてもらえる
以降まだ、1年間は抗がん剤の服用をしていました。
小児白血病の治療は1年、入院します。間に一時帰宅をしながら抗がん剤を使用した治療をします。 苦しい治療中、何度も、息子は目を覚まさなかったり、もう駄目だと思うことが何度かありました。
まわりのALLの子たちとは、一線を画す治療をしていますので差がけっこうありました。でも、他の難病の子たちも大勢いましたので、自分たちだけが特別とは全く思いませんでした。
今回、自分の子がたまたま発症しただけで、つねに一定数の難病の子、障がいをもつにいたる人は居るのです。その中の一人になっただけにすぎません。
ですので、私たち一家は、何で自分たちがこんな目に!?という感情は一度も湧かなかったのです。ある意味、ストレスのない性格とも言えます。
がんになった家族のいらっしゃる方は、ご存じと思いますが、がんには快癒はありません。寛解があるだけです。治療終了後、5年間再発しなければ完全寛解となります。
2020年2月1日(土) やっと息子の主治医より 「おめでとう 完全寛解だね」と告げられました。
長い長い、時間でした。
チモッティーは、この日まで。 2週間に一度は覚悟をして生きていました。
いつ、息子は再発するか分からない そのときのことを覚悟して生きてきました。
完全寛解の言葉を医師からもらい、やっと私は、ああ、また二次創作くらいは楽しんでもいいかなと、思えたのです。
話は少し戻ります。
完全寛解を迎えていなかったこともありましたが、息子の治療中、私は就労していなかったし、生活費とオモチャ代に今までの貯金や、解約した学資保険すべてをつぎ込んでしまっていたため、出産後からカウントしてバッサリと300万円程度、全額が消えてしまっていました。
預金残高は2014年時点で3万円程度しかない状態に陥っていました。
子どもが入院すると、医療費が国費で賄われますが、就労状況を維持できない場合、補填はありません。
毎日の面会、交通費、さまざまなお金がでていくままになります。
私は生命保険を子どもにかけるなと実家の母に強く言われていたため、共済すら入れておらず、当然、後悔しました。
実家の母は、知り合いのお子さんが亡くなったときに知り合いのお母さんが保険金詐欺を疑われてひどい目に遭ったのを見たことがあったので強硬だったのです。
誰が悪い、というわけではない話ですが、こども共済くらいは入っておけばいいと思います。非常に生活が苦しい状態に陥り、半年ほど、実家から月に5万円くらい仕送りをしてもらい、凌いだりしていました。
もう離婚して生活保護を一回、受けようと思うと、実家に相談したのでした。
つらかったです。病児を抱えて、どう働くのかという悩みは多くの人がもつものですね
今、勤めている職場ならば配慮はあるし、きっと就労し続けながら闘病できたと思います。
とにかく苦しかったです。せっかく保育園に入れてもらってパートに行きだして3日目にはスクーターに横断歩道上でひき逃げされました。
すぐに、犯人は捕まったのですが自賠責しか入っていなくて
車の保険の特約で交渉してもらい、なんとか治療費と休業損害(パートだともらえないくらい安いので主婦で申請しました)のお金をもらいました。
しかし、むちうちで半年以上苦しみながら吐きながらパートに行っていました。
1年ほど行っていたパートは大人数の事務センターでしたが、いじめがすごくて、仕事を教えてくれた方がいじめ抜かれて退職されてしまったので、次のターゲットは自分だと思い、体調が悪いですと言い張って辞めました。
理由をものすごく、「本当のことを言ってください」と問い詰められ、いじめがあった、次にやられるのは私なので、怖くて行けませんと正直に伝えたら、辞めさせてもらえました。
次に短期で派遣にいったところも、ものすごくて・・・私が居た3か月の間に8人辞めていきました。
子どもを産むまで外資で8年ほど働いていたので、正直ものすごく後悔しました。
とても働きやすかったし、どんどん給与がアップしていたからです。
仕事を辞めたくなかったのに、命がけで子どもを産んで、その子が白血病になり、やっと寛解したのに、自分はもう、まともなところで働けないのだと絶望しました。
もう無理だと思い、息子に一緒に死んでくれるように頼みましたが、
死にたくない、ママと一緒に生きたいと泣きながら言われて、思いとどまりました。
いいことも一つ、あったのですけれど。
2014年の6月に、インドネシアで働く仕事の面接に行き、実は合格していたのです。
私は息子の服薬治療が9月に終わると思っていたのですが、実際は放射線治療分の期間、後ろにずれてしまっていて12月まで服薬が継続すると気付き、辞退しました。
あの、合格は。 私の心を救ってくれました。
少なくとも、まだ、能力を認めてくれる企業があり、私を雇用してくれるのだと、
お役に立つことは出来ませんでしたけれど、どれだけ救われたことか。 とても感謝しています。
それが 2014年の出来事です。
2014年12月叔父夫婦が私と息子をスリランカに連れて行ってくれました。
そして、現地で再発率の高い白血病であることを話し、少し民間療法を試すことになりました。
翌年、2015年5月 実家から資金を援助してもらい、1ヵ月、アーユルヴェーダ治療を受けにスリランカに行ってきました。
本当に効果を期待していたわけではありません。
息子はいつ、再発するか分からない、できることは、たいしてない。
でも、やれることをしておかなければ、後悔するという実家の祖父母と私の気持ちのためのチャレンジでした。
旅行会社を介さず、自力で医療治療用のビザを取得、航空券を手配、海外旅行保険も入り、現地で知り合ったガイドさん頼りに、母子だけで1ヶ月渡航しました。
現地では、それはそれは、皆さん優しかったです。
病児を連れて日本から母子だけで来ているというだけで、とても親切にしていただきました。 今は無理ですが、経済的余裕が出来たら御礼に行きたいと思っています。
あの貴重な経験は、大きなターニングポイントになったと思います。
私には、まだできることがある。そう思えました。
海外就労の合格だってもらえた。
スリランカまで子連れで行ってこれるバイタリティーだってある。
そう自分自身を、無理やりではありますが、肯定することが出来ました。
そして不思議なことに、そこから運が上向いたのです。
スリランカから帰国した翌月、たいして係わりのない派遣会社から電話があり、双子を産んだ方の代打の事務に行ってくれと言われたのです。
数年ぶりに、ありついた、まともな企業でのまともな仕事でした。
育休を明けた方が戻ってきて、お役御免となったのですが、そのまま何とか、間を空けずに今の仕事に就くことが出来たのです。
今も働かせていただいているのは、偶然にも子どもが白血病の治療を受けた大学病院のおおもとです。教育機関で事務職をさせていただいてます。
2016年5月。 熊本地震の直後から現在の職場でお世話になっています。
いまが2021年5月ですから、6年目ですね。
でも、決まった当日は大喜びするも、翌日には逆に夫がリストラを宣告され、まあ、落ち着きはしなかったですね。
2016年6月、私の頭には、500円玉禿げが2つ出来て、雪だるま禿げになってました。
それでも、小1になったばかりの息子を学童に入れ、送り迎えを夫に押し付け、私は仕事にまい進することが出来たのです。
むしろラッキーだったと言えます。
夫は夫で、なかなか仕事が決まらなかったので、職業訓練に行きなさいと言い、3DCADの訓練を受講(もともと電子系の訓練に2年通っていたこともある)
訓練校の紹介で、今の勤め先を面接。 正社員になることができました。
しかも、給与は前よりも良くなったのでした。
2017年、2018年、2019年と、徐々に我が家の財政状況も改善。
私も正規雇用に切り替わり、暮らしは安定。痩せて体力のなかった息子も人並みに元気になっていきました。
そうして迎えたのが。
2020年2月1日(土)の、完全寛解を宣言してもらえる日だったのです。
私はその時を境に。
やっと12年ぶりに。 また、漫画を描こうと。
人生最後の再起動をかけることを決意したのでした。
次回は、どのように創作再開をし、地雷レッテルを貼られるに至ったのかを記します。